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女性の人間力アップ講座【第14回】報いを求めぬ心

女性の人間力アップ講座【第14回】報いを求めぬ心

  

みなさまこんにちは!最近大雨が続き太陽さまにお目にかかれないのが寂しい〜大雨が早く収まること、被害がさらに拡大しないことを願いつつ、早くお天道様に会いたい!と思う今日この頃です。


さてさて、女性の人間力アップ講座も残すところ2回。14回目は「報いを求めぬ心」です。

前回のテーマ「心の清らかさ」の続編のような今回のテーマ。
私は今回のテーマは一番自分の心持ち・態度を反省させられまして。。まったくもって私「心のさもしい」ヤツでした。

神様に愛される人を目指すには、やはり「報いを求めない心」になりたいもの。ぜひみなさんもきっと思い当たるふしがあると思いますので、こっそり反省しつつ、森信三先生にご指導いただきましょう!

 

 

(ちょっと補足)このブログ講座は森信三先生著「女性のための修身教授録」の講義内容から抜粋して重要ポイントをお伝えしております。


「心の清らかさ」が深化して「報いを求めぬ心」となる

人間の心の清らかさは、それが深まってきますと、ある意味では「報いを求めぬ心」ともなるようであります。
しかし真にこの境涯にいたるということは、結局は何らかの宗教的信仰に立たなければできないともいえましょう。
前回のテーマであった「心の清らかさ」を深めていくと「報いを求めぬ心」に至る。そして、この心に至るには「宗教的信仰」といったことは避けて通れない。といったことを信三先生おっしゃっています。でも宗教的信仰と言われると、何かしらの宗教を信じる方にとっては受け入れられると思いますが、そうじゃない場合は、「えっ?ちょっと。。。」と抵抗が出てしまいそうですよね。

それに対しての森先生の言葉。
報いを求めぬ心は、宗教的な信仰がないと得られないというよりも、
ある意味ではこの「報いを求めぬ心」そのものが、そのまますでに宗教的な心持の一面なのです。

宗教というとキリスト教や仏教やイスラム教などいろいろありますが、ほぼ、どの宗教でも言われる大切なことが「感謝」と「自分を何かに尽くすこと」と真理は共通しています。なので何かの宗教に入っている、信仰しているということが重要ではなく、結局この「報いを求めない心」を養うことこそ、宗教を越えて、神様仏様の意に叶うことなんだ、ということをおっしゃっているんですね。とっても深いお言葉でなるほど納得です。だからこそ、

神様に愛していただくには、ぜひとも「報いを求めぬ心」を持つ人を目指さなくてはいけません!


しかしですね、しかしですね、報いを求める心って、、やっぱり、出てきませんか?

私たちにつきまとう報いを求める心

私たちの日々の生活にあっては、どんなに立派なことをいたしましても、そこには必ずや何らかの意味で報いを求める心がつきまとうのであります。
たとえば、仮にみんなで待ち合わせをして、どこかへ遊びに行くとしましょう。その時に一番に待ち合わせ場所に行き、2番目に来た人から「一番だったのね!」「早いね〜」と言ってもらえないと、なんだか物足りないと感じませんか。さらに2番目に来た人は、その言葉を言う言わないにかかわらず、1番に来たということは認めてくれますが、3番目、4番目に来た人は誰が一番に来たのかわからなくなりますよね。なので当然「一番だったのね!」「早いね〜」とは言ってもらえなくなる。それにに対してちょっと寂しい、物足りない、、といった気持ちが生まれてくる。。

そんな時に「今日は私が一番だったんだよ!」とたしなみの無い人はなんのきっかけもないのに言ってしまう。またそこまであからさまに言葉にしないけれど「誰か褒めてくれないかな〜」と思いながらそこに話がいくように心中思いめぐらす。。

そんな心の動きが報いを求める心で、私たち人間の抱きやすい凡情である。しかしそれはさもしい心である。と信三先生、バッサリとおっしゃっているわけです。

きゃー!さすがに口には出さなくても「ちょっと褒めてくれないかな」なんて思いを抱くこと、、ありありです(あ、たまにアピールしていることもある・・苦笑)
いやぁ、これはさもしい心ですね。なんとも恥ずかしい、恥ずかしい。。我ながら恥を感じます(反省)

報いの心を求める人は人知れず悪臭を放つ


さらに、この報いを求める心がどのようなものか、信三先生グリグリと突っ込んでくださいます。
ある人のために、多少でも自分を犠牲にしたというようなことでもありましたら、何としてもそれが頭にこびりついて容易に離れがたいのであります。
自分が相手のために尽くしてやったとうことが、いつまでも頭にこびりついていて離れないということは、すなわち心中ひそかに報いを求める心を抱いているということでもありましょう。
そして、神様愛されを目指す身として、ショックな決定的なお言葉がこちら

最も大切な点は、このように報いを求める心がつきまとっている限り、いかなる善行といえども、少なくとも神仏の眼からは真の善行とはならぬというわけです。
すなわち、この報いを求める心というものは人間の善行を汚す烏賊の墨のようなものであります。
がーーーん!!
いかなる良いことも、報いを求める心があればイカの墨で汚しているとは。。なんともショックです。さらに悪いたとえとして、報いを求める心は、自分の口の臭さや腋の悪臭が自分でわからないように、人知れず悪臭を放っていると。。
森先生、例えが直球すぎます笑

とてもショックなお言葉ですが、なんとか報いを求める心にとらわれることから脱却せねばいけません!その方法を知る前に、そもそもではなんでこの「報いの心」が生まれるのか。その理由も教えてもらいましょう〜

報いの心が生まれる理由は「五分五分」の心

人間というものは、五分五分の心。すなわち「自分がこれだけしてやったからには、先方にもこれくらいのことは、してくれても良さそうなものだ」という心のある人間は、その人柄の上に、どこか卑しい影がつきまとうものであります。
人間のあらゆる悩みと苦しみとは、畢竟するにみなこの五分五分の心より起こるのであります。
はぁ、、、、みなさま、どうでしょうか。もう、、これは、、、私は自分の心を見透かされている!と思うくらいでございます(汗)
そうなんですよね、自分が相手よりも多い労力をかけていたら「損」みたいな感覚かな。これだけやったんだから、返してくれるのが当然じゃないの!という思い。特に近しい家族や友人知人には抱きがちではないでしょうか。いやぁ、まさにこの五分五分にとらわれている!これにとらわれなくなったら、、、はいラクになること間違いなしですね。

ではでは、報いを求めぬ心を育むにはどうしたらいいか。最後に方法を教えていただきましょう!

報いを求める心をつくるには、人知れずよいことをしなさい

それには一体どうしたらよいかと申しますと、一つの方法は、まったく人の知らないところで、なるべく多くの善行を積む工夫をするということでしょう。
平生から他人に報われないような事項に力を注いでまいりますと、他人から報われないということが割合に苦にならなくなるものであります。
人知れない善行とはたとえば
  • 公衆トイレに入った時に、汚れているところをサッとふいておく
  • 道端に空き缶が落ちていたら、さっと拾ってゴミ箱に入れておく
  • 部屋を最後に出る時に戸締りをして出る
  • 部屋を使う前にさっと掃除をしておく
などですね。これらをあからさまにやってますよー!アピールをしないのはもちろん、できるだけ人に気づかれずに行う。ということがポイント。それを続けていたら、人から報われなくても苦にならなくなってくる。
「慣れる」って、人間に与えられたなんとすばらしい能力でしょう。人間にとって慣れ、習慣はまさにまさに、その人の人格をつくりあげる鍵!

人知れず一日一善活動!!

ということで、毎日は難しいわ〜という場合でも、駅やお店のトイレをお借りした時には、使用する前より綺麗にして出る。こんな行動から報いを求めぬ心を育んでいけそうですね。

まとめ

ということで今回のテーマは「報いを求めぬ心」について森信三先生に教えていただきました。ポイントのおさらいですが、

  • 報いを求めぬ心は、宗教を信仰するのと同じぐらい重要な意味を持つ
  • 報いを求める心がつきまとっている限り、真の善行にはならない。
  • 報いの心が生まれる背景は五分五分の心
  • 報いを求める心を育むには、こっそり一日一善!!

ということでございました。
今回のテーマ、みなさまいかがでしたでしょうか。私は、自分の口臭や腋の悪臭を知らず知らずに放つような存在となっていたかもしれない(恥)と大いに自分の心もちを反省させられました。。
神様に愛される存在となれるように、報いを求めぬ心に近づけるように、ひっそり一日一善活動を、できるところから行っていきたいと思います!

ではでは今日はこのへんで。

次回はいよいよ最終回。「最後の問題」です。修身の講座の総括でもあります。またぜひお付き合いいただけると嬉しいです♡

ではではまた次回。今回もありがとうございました!